「いってきます」 そんな小さな声で、一度目が覚めた。 もう一度目が開いたのは、そろそろ周囲が薄闇に包まれそうな頃だった。 結局眠ることが出来たのは日が完全に昇りきった後、朝食を食べる気力すら起こらず疲れ切ったまま倒れ込むようにルガジーンと共に眠りについて。眠っている最中に色々な物音を聞いて、動こうとする度に暖かく大きな手に押しとどめられた気がしたが。 目が覚めてみたら、家には自分一人だった。 疲れが完全に取れていない体をベッドから起こし、とりあえず体を軽く動かしてみる。治したばかりの時には違和感があった体だったが、無理矢理動かしたこと が功を奏したらしく、日常生活に支障があるような不都合は感じられなかった。本来なら失っていた可能性も高い体の部分を魔法で無理矢理補ったようなもの だ、しばらく慣れないのはしょうがないこととしよう。兵の訓練という名目で何十人かぶっ飛ばせば、半ば新しくなった体の使い方もきっとわかってくる。そう なる頃にはかなりの数の始末書を書かなければならないだろうが、それはルガジーンに肩代わりさせればいい。 まだ完全に目覚めきっていない鈍く重い頭を振り、使い慣れない体を適当に動かしながら、寝室を出た。 厨房兼食堂になっていた壁をぶち抜いて作った大きな部屋に行ってみれば、テーブルには時間が経過して表面が堅くなり始めていたパンが山のように置かれてい た。高級品とされている柔らかくしっとりとしたパンではなく、ごく普通の飲み込むのに時間はかかるが腹持ちのいい、固くて重いパン。その隣にはこれも山のように大きく盛り上げられた野菜と海藻のサラダがあり、添えられた小さな壺にはドレッシングが半分程満たされていた。ガダラル好みの多少辛めのドレッシングを同居人達はあまり好んでいなかったが、今日は使っていったらしい。 その他には完全に添え物になっている焼いた厚切りのハムと、果物が置かれた皿。ハムは両端からそれぞれ持って行った跡があり、果物は中途半端に切り分けられている。この様子から考えれば厨房に置いてある巨大な銅鍋の中には、ガダラルの好きな豆と干し肉が大量にぶち込まれたスープが入っているだろうと予測したら、本当にそのままそれが入っていた。 更に言えば、鍋の隣には甘めに作ったチャイまで用意されており。温めればすぐに飲めるように、小さめの鍋に入れてあるのは、朝の時間は動きたがらないガダラルの性格までを考慮したもので。 「最後まで気を遣いすぎだ……あの馬鹿が」 全てガダラルが好むメニュー、そして彼の行動を考えた物の置き方。 この調子ならば、各部屋も文句の付け所がないくらい綺麗に掃除していったのだろう。見る気にはならないが、きっと庭の雑草も綺麗に抜かれ、モグハウスから 持ち込んできた植木鉢も片付けられてしまっているはず。あれでせっせと野菜を栽培しては、食卓を賑やかにしてくれたものだが、もうあの中には土一つ入って いないだろう。 無理矢理持ち込んできて、中身を入れて、そして最後は空っぽにして去っていく。 悲しいとも、寂しいとも、まだなんとも言えず。そもそも去ってしまったことすら嘘で、あの少女は最初から存在しなかったのではないだろうかと思わせる程静かな、一人だけの時間。 最初は一人だった、ずっと一人なのが当たり前だと思っていた。 いつの間にかルガジーンが自分の生活に入り込んできて。 そして小さな偶然ときっかけが、三人での暮らしを与えてくれた。 誰かと共に暮らして、暖かい時間を共有すること。 飾らずに誰かに言葉を伝えること、決して遠慮はしないこと。 1年足らずの短い時間の中で、あの少女にもらったものは大きすぎて。まずはどこから自分の中の思いや記憶を整理していけばいいのか、ガダラルには全くわからなかった。 わからないから、とりあえずできることをするしかない。 遅すぎる朝食は、一口含み飲み込む度に慣れきった味わいと共に、胃になんともいえない重さを与えてくる。体がまだ本調子じゃないというのもあるのだろう が、それ以上に体に刺さってくるのはこの家の空気だった。ここはこんなに乾いた空気を持つ場所だっただろうか、ガダラルが最後に覚えているこの家の空気 は…… 「………………………………………………っ!」 そう考えてしまったのが、失敗だった。 必死に詰め込んでいた食べ物が一気に喉元までせり上がってくる。喉の入り口に苦い味わいを感じ、拳を握りしめ目端に涙を浮かべながらそれを再度飲み込むと、ゆっくりと時間をかけてチャイを口の中に流し込んだ。 歯の隙間から空気を口内に流し込み、やっとのことで体を落ち着ける。 全身を覆う汗と、まだ口に残る苦い感触。戦場で部下を失った時もこんな感じだっただろうか、それとも部下と『家族』では失ったときの重みはやはり違うのだろうか。 「そんな訳があるか」 自分の疑問に、自分の口が勝手に答えた。 命の重みは誰であろうと同じ、人が勝手にその重みに色々な物をつけて軽くしたり重くしたりしているだけなのだ。あの少女が何を選んでどうなったかを今のガ ダラルが知る術はない。間違いなくルガジーンが付き添ったのだろうが、そのルガジーンが無事に帰ってくるかすら確実ではないのだ。 ああ、だからこそ今の自分はこんな苦しいのだろう。 大切な人が一気に二人も目の前から消えた、帰ってくるかわからない。 こんな状況なのだ、苦しくて当たり前なのだ。それを理解したら、少しだけ気持ちが軽くなった。 食べられそうにない食事はもう少し落ち着いてから摂ることにして、とりあえずいつ帰ってくるかわからないが待つしかないだろう。 昨日の後片付けはザザーグとミリがやってくれている。 ルガジーンが作ってくれた休日を体を休めることに使うのは、軍人としての義務だろう。心と体、両方をいたわり、次の戦いに繋げることがガダラルの、五蛇将として最低限しなければならないことなのだから。 もう夏も近いというのに、やたらと空気が冷えている気がする。 様子を見に来たシャヤダルを家からたたき出し、薬草を漬け込んだ酒を持ってきたザザーグからそれを素直に受け取り。休もうとしても中々休めない状況に少しイライラしながら砂糖もミルクも入れずに茶をすすっていると、玄関から小さな物音が聞こえた。 聞き慣れた音なので迎え出ることもなく、そのまま体を食卓に預けたまま、こちらに来るのを待つ。 「ただいま……もっと早く帰るつもりだったのだが遅くなってしまったな」 「…………市街の状況はどうだ?」 「思ったより被害は軽かった、あの調子ならここ数日のうちにほとんどの店がまた商売を始めることが出来るだろう」 それ以上言葉を重ねることなく、食卓の上の食物の減り具合とガダラルの様子を確認したルガジーンは、そのままガダラルの背に手を乗せてきた。 「全部終わったよ」 「……そうか」 「あの子は宰相の所へ行った、帰ってくることができるとしてもかなりの時間がかかるとのことだ」 「説明してくれるんだろうな」 彼女がこれからどうなるのか、それから自分の判断は間違っていたのか。 そんな思いを込めて顔を上げてルガジーンを睨みつける。彼が悪いわけではない、あの少女は何も悪いことをしていない。無駄に時間を引き延ばし、彼女の意思と安全を守ろうとしたことで、逆に最悪の方向へ追い込んでしまったガダラルがきっと一番悪いのだ。 それでもルガジーンに様々なものが綯い交ぜになって、その上で怒りという名をつけてしまった感情をぶつけずにいられない。最後まで自分が関われなかったこ と、こうやって結果を聞くしかない状況。自分を見つめてくるルガジーンの顔はあまりにも涼しげで、一緒に過ごした時間は彼を何も変えなかったのかと、つい 聞きたくなってしまう程で。 「その前に、一つだけ」 笑みすら内包した、ルガジーンの瞳。 そして彼の手が差しだしてきた封筒をむしり取ると、その笑みが更に深くなったのを見ることなく、ガダラルはその手紙を破ってしまう程の勢いで開き、そして読み始めた。 ガダラルさんへ ガダラルさんが本当に疲れているようだったので、お手紙を書きます。 お婆ちゃまに書いていた手紙は、いつもお婆ちゃまに元気ですかって聞いていましたけど、ガダラルさんは疲れているけどちゃんと家に帰ってきてくれたので、そういうことは書かないことにします。 でも、これだけは書かせてください。 おかえりなさい、ガダラルさん。 そして、今まで私と一緒にいてくれて、ありがとうございました。 色々たくさん考えましたけど、私は宰相様の所へ行った方がいいってことがわかりました。ガダラルさんの話してくれたことは難しくてわからないことも多かっ たですけど、私がこのままの状態で街の中を歩いていると、また誰かがあんな風になってしまうのなら、誰にも会わずにすごすのが一番いいんだろうなって思っ たんです。自分のことを自分で決めたんです、私。守ってもらうのはだからもう終わりです、ガダラルさんは今まで私のことをいっぱい考えてくれた分、他にや りたいこととかをしたり、ルガジーン様と仲良くしていてください。 宰相様の所へこれから行ってきますけど、私はガダラルさんの侍女見習いで、ガダラルさんの家族です。いつか絶対に帰ってきます、だから私の部屋はそのままにしておいてくれると嬉しいです。 それから、ルガジーン様のことは怒らないであげてください。 私一人で皇宮に行っても入れてくれないかもしれないので、ルガジーン様に一緒に行ってもらうようにお願いしました。ルガジーン様はガダラルさんも一緒にって何度も言ってくれましたけど、もうガダラルさんと一緒なのは終わりです。 いつも一人はさびしいけど、ガダラルさんと一緒じゃないのもさびしいですけど。 でもいつか必ず帰りますから、待っていてくださいね。 それでは、また必ずお手紙を書きます。 読み終わって最初に口にした言葉は、自分でも意外なものだった。 「貴様……俺より先に読んだだろう!」 「君を精神的に追い込む手紙なら処分するつもりだった」 「俺宛の手紙を勝手に読むな!」 「それで、この手紙以上に聞きたいことは?」 「…………」 「君は何も間違っていなかった。あの子は不運だったかもしれない、だが不幸にはならなかった」 それでもう十分だろう? ガダラルを無理矢理納得させるために言っているのなら、この場でルガジーンを張り倒していた。いや、魔法で焼き尽くしてやっていたかもしれない。 彼の笑顔がこれからやってくるであろう夏の太陽よりも輝かしいものでなければ。 「あの子が……本当に幸せそうに笑っていた、そして自分を幸せにしてくれた君に本当に感謝していた。だから私は本当に君が誇るべき事をしたのだと思う」 「救ってやれなければ意味がないだろう」 「最後に宰相様と少し話をした時に、こんな事を言っていた……あれだけ長い時間あの状況を保つことになると思わなかったとね。すぐに彼女の浸食が進んで、自分が強制的に保護する状況になると考えていたようだ。君の元から強制的に引き離そうとしていたのも、ある意味君の身の安全を考えてのことだったらしい」 「奴に心配される程俺はヤワじゃない、貴様が一番わかっているだろう」 そういう意味ではないのだが、と笑うルガジーンはようやく椅子を引き寄せてガダラルの隣に腰掛けてきた。そのまま手を伸ばしてきた手が肩を抱いてくるが、寒いと感じていた空気にその瞬間わずかにぬくもりが宿り始めた気がした。 夏の初めの、若葉が育つ頃の優しいぬくもりが。 「また二人になってしまったが……」 「俺は元々一人で、これからも一人だ」 「私は君の側にいる、月並みな言い方で申し訳ないが今までも、そしてこれからも」 「…………貴様はもっと口説き文句を勉強することだな、白々しい物言いしかできないのか、相変わらず」 「口説き文句と君が認識してくれるようになっただけ、大きな進歩だと私は思っているよ」 「そうか」 小さくそう答えると、そうだよと大きな体が大きな声を返してきた。 その声にも自分にも甘えず、しばらくは自分の行ったことを振り返り自省する日々が続くだろう。小さな少女を拾ったのも事実、失ってしまったのも事実。だが小さな希望が残ったのなら、次に出会えたときにはもう一度迎え入れればいい。 きっと、自分たちはもう一度巡り会うことが出来る。 |