1日近くに及んだ長時間の戦いの結果は、とりあえずの平穏をアルザビに運んできてくれた。ガダラルがアルザビに戻ってきてから2度目の夕暮れを終え、執務室に戻ってきた時には空はもうすっかり暗く染まりきっていた。あと数時間もすれば、最初の曙光がアトルガンの大地に差し込んでくるだろう。 次の敵襲に備え短期間での防備の修復や物資の調達をしなければならないのはいつものことだが、今回はそれ以上の問題が残っていた。 「いい知らせと………………悪い知らせがあるんだろう? さっさと話せ」 心底疲れ切った様子のガダラルの顔の脇に、あたたかいミルクにたっぷりの蜜と少量の酒を注いだ物を置いてやる。机に顔を伏せ、こちらに顔を見せようとしない彼の心の中で今渦巻いているものの中で、一番何が重いのだろうか。 後悔か。 それとも絶望か。 戦いは終わったというのに重い鎧を脱ごうともせず、自分の机から離れようともしない彼を放置して、ルガジーンはさっさと自分の身支度を終わらせていた。 これからあの少女に全てを話さなければいけない。 一度動き始めれば早いガダラルに置いていかれるわけにはいかないし、それ以上にルガジーンはこの程度のことでガダラルが一歩も動けなくなる人間ではないとちゃんとわかっている。時折動けなくなってしまっても、周囲の状況に足を取られてしまうことがあっても、彼は自分の意思で全てを振り切り足を前に進めることができるのだから。 それは彼の近くで過ごしてきた自分と、そしてあの少女が一番よく知っている。 今の自分に出来ることはガダラルがもう一度顔を上げるために必要な情報を与えること、そして鎧を脱ぐ手伝いをすることだろう。普段は行儀が悪いからするなとよくミリやガダラルに言っているが、あとから怒られることを覚悟で、ガダラルが体を預けている机に自分の体を乗せる。 尻を乗せると少し足が余るが、まあそれはしょうがない。 「悪い知らせから話した方がいいかな…………あの子の祖母が亡くなっていたそうだ」 「………………いつの……話だ」 「星芒祭の前らしい。君が捕虜になっている間に、今までの手紙が全て送り返されてきた。ご高齢の方には冬の寒さは体にかなり堪えたらしい」 身じろぎ一つすることなく時折嗚咽に近い深い息を漏らすガダラルの頭を覆うターバンを、話を続けながらゆっくりと巻き取っていく。黒く濁った返り血で固まっていたターバンの下から、多少色艶は失せているがそれでも十分鮮やかな色合いの髪が現れた。 本人の了承なく奪ったターバンを無造作に机の下に放り投げ、布の代わりに今度は自分の手を与える。 くるむように、包み込むように、彼を守るように。 一瞬彼がぴくりと反応し、更に大きな深い息を漏らしたのを確認し、話を続けることにした。 「送り返されてきた手紙には、書きかけの手紙が一つ混ざっていてね。最後まで幸薄い自分の孫を心配しておられたようだった……君は彼女が集落を追い出された原因を知っていたようだね」 「ああ……前聞いた」 強大な魔力の才を秘めていた故に起こった、魔法の暴発事故。 ちゃんとした教育を受けていれば、せめて魔法というものの危険性を誰かが伝えていれば、幼い子供はそんな事故は起こさなかっただろう。村の命ともいえる水源を凍り付かせ、その年の畑の収穫に多大なダメージを与えてしまった少女は、一切の反論も許されず村を追い出されることになってしまった。 それからの苦労は推して知るべしだろう。 祖母の最後の書きかけの手紙には、各地をさすらい、ようやくたどり着いたアトルガンで周囲の人たちに大事にされる孫への限りない愛情と、そしてガダラルへの感謝が綴られていた。 孫を大切にしてくれて、愛してくれてありがとう、と。 だがこれは今のガダラルに伝えるわけにはいかない、いい意味でも悪い意味でも彼の心が完全に折れてしまう。 代わりに伝えるのは、完全ないい知らせとは言いがたい吉報。 「悪い知らせはこれだけだ、あの子にいつ伝えるかは君が決めるといい。いい知らせの方だが、宰相から手紙が届いた」 「………………………………………………」 「浸食を食い止める方法が見つかったそうだ、ただしそれを彼女の体に施すには時間がかかるし、彼女自身の協力も必要になるということらしい」 「…………当たり前だ、体を作り替えるとまではいかないがそれに近いことをやるんだろう。本人に拒まれたら出来る処置もできなくなる」 小さな声、息に溶けてしまいそうな程に。 衝撃と絶望の淵から立ち上がるために、必死に頭を働かせ、消えそうな声を紡ぎ続けるガダラル。そんな彼にルガジーンがしてやれることは、彼の側にいることだけ。 触れた髪にぬくもりを送り、余計な雑音で彼の心がかき乱されないように時折耳を手で塞いで。それが彼にとって負担にならないように、自然に、だが細心の注意を払う。 「…………拒む…………協力…………か………………………………」 「ガダラル?」 「…………………………………あの馬鹿宰相…………使いたくなかった札ということか…………押さえ込む必要があるという訳か……………………………」 ぽつり、ぽつりと彼の唇から言葉が漏れる。 ルガジーンに聞かせるためではなく、自分の考えをまとめるため。 「………………置けはしないが放置もできない…………手紙……来いということか………………?」 最後に一言だけ、ルガジーンには聞き取れない程早口で何かを一つ呟いて。 ガダラルは赤くなった目の端を隠そうともせず、一気に顔を上げた。 紅の鎧を身に纏い、以前より多少伸びた髪が窓からさし込む月の光という冠を受け鮮やかに輝く。ルガジーンの手を拒むことなくそのままにし、虚空を睨みつける姿はもういつもの彼そのものだった。 「泣いてないからな」 「…………私は別にそんなことを気にしていないし、聞く気もないのだが?」 「……………………………………っ!」 彼が先程まで伏せていた机に、乾ききった涙の跡があるのだが、それも見ていないことにしておく。 最後に一度だけ彼の頭を撫で、その手をそのまま彼の前に差し出した。 「さて、では行くとしようか。私たちの『娘』の所へ」 「ちょっと待て……誰が娘だ! 俺はあんな頭のでかい娘を持った覚えはないぞ!?」 「だが君にとって彼女はもう侍女ではないのだろう? だったら娘でいいと思うのだが」 「…………娘扱いにするとな、ミリの奴が俺のことを『お母さん』呼ばわりするに決まってるだろうが。そうなると貴様が『お父さん』だろう、そんなの俺は絶対に認めないからな!」 ああ、嫌なのはそっちか。 彼女を家族として扱うのが嫌なのではないことと、ガダラルがその目に綺麗な炎を宿して自分の手を取ったことに安堵しつつ、ルガジーンは彼の手を強く握り返した。 夜が明けるまでにもう一つだけ、片付けないことがある。 ゆっくり眠れるのは果たして何日後の話になるのやら。 その時は彼を腕に抱いて、心ゆくまで眠りたいと思いながら、ルガジーンは今後の展望を考え始めていた。 |