腐り落ちかけていた指は、一応鎌を握れるまでには回復した。 以前のように自由に動かせるのかは戦場に立ってみないとわからないが、少なくとも茶を飲むのには不自由していない。気付けのためにかなり濃く、そして熱くしてもらったのだが、一口飲む度にひび割れ血が滲む唇に染みこみ差すような痛みが送り込まれてくる。 「もう少し冷まして飲んだら?」 「気合い入れだ、これくらい熱くないとな」 「火傷してるわ、気合い入れにしても熱すぎるんじゃないかしら」 くすくすと横で笑うナジュリスの指は、乾ききっている上に味のない非常糧食をつまんでいる。何しろ一月近く捕虜として散々な扱いを受け、まともな食事もほとんど取っていないのだから、どんな食べ物を出されても胃が喜んで吸収してくれる。 ましてや、これから自分たちを虜にしていた蛮族とまた闘うことになるのだから、どんなものでも食べておかなければ勝負にならない。 狭いが窓も壁もちゃんとある兵舎の一室。 ルガジーンの気遣いで用意されたこの部屋だが、気持ちの整理をつけるのに、これほど有り難い環境はなかった。捕まってしまった自分への侮蔑と哀れみ、そして将としてこれから何をなすべきか。蛮族達ともう一度向き合うために、ただ自分の心と向き合うためには周囲の声という雑音は必要ない。 ナジュリスも同じ気持ちなのだろう、時折こちらを気遣う声をかけてはくるが、基本的には呼吸を整えながら何かを考え続けている。 蛮族の襲撃に備え、民衆を逃がす声や防備を確認する声が聞こえる中、一度だけ大きく息を吐き出したナジュリスが、無言で服に手をかけた。そのままガダラルがいるのを気にすることなく、上の服を一気に脱ぎ捨てると、無骨極まりない鎧下を身に纏い始めた。滑らかな曲線を描く胸と、古い傷跡がいくつも残る肌が惜しげもなく晒される。 「少しは俺を気にしろっ!」 「互いに見慣れた仲でしょ、私も貴方の体なんて何度も見ているわ」 「そういう問題じゃない、貴様も女なんだから少しは恥って物をな……」 「そんなもの、とっくに捨てたわ」 きっぱりと、何の後悔もない声。 確かに見慣れているといえば見慣れているし、こちらも着替え時に女性陣に気を遣ったことなど一度もない。それでも男性の立場から言えば、目の前で普通に晒される女性の肌を無視するわけにもいかないわけで。 「俺を誘惑しても、何も出さんぞ」 そう軽口を叩いて誤魔化そうとすると、着替え中のナジュリスの動きがとまった。肩口に衣類をまとわりつかせ、ガダラルの方を向いて引きつった跡の残る胸の下を指さしてくる。 「……五蛇将になってから、傷が残らなくなったの。ミリが一生懸命癒してくれるから」 「そうだな」 「ミリに怒られるのよ、女の子なんだから傷とか気にしなきゃダメだよって」 「そうか」 「こんな私でも、そう言ってくれるの……あの子……」 女なんかとっくに捨てている、この身は皇国のためのもの。 そう言い続けていた彼女が変わったのはいつ頃だっただろうか。責任と贖罪を間違え、国のために身を捧げることだけが自分の存在意義だと思っていた彼女を支えたのは、重い過去すら笑って受け止めるミリの存在だった。ガダラルが小さな少女を通してルガジーンとの絆を深めていったように、彼女もミリを通して他の人間達と関わることで、何かを得ていったのだ。五蛇将なんて名前ばかり立派なはみ出し者の集まりを作り、精鋭の集団としたのがルガジーンならば。 小さな少女を守ろうとする、その思いが彼らを戦友へと変えていったのだ。 「…………自分から見せておいてなんだけど、あまりじっと見ないでちょうだいね」 「俺は最初から隠せと言っていたんだがな」 「そうだったわね」 さすがに色々な意味で気恥ずかしくなったのか、手早く肌を隠してしまったナジュリスの姿を見ながら、ガダラルもゆっくりと足に力をかけて立ち上がった。指程ではないが、足にも相当なダメージが来ている。すっかりガダラル専属のケアル要因になっているルガジーンが顔をしかめる程だったのだから、本来ならこの戦いに出るのもいいことではないのだろう。 指程ではないが、多少の違和感がある足で果たしてどこまで戦えるのやら。 ナジュリスも同じ状況なのか、鎧を身に纏いながら時折指の動きを無言で確かめている。弓を引く上で要となる指に違和感を感じる状況で、彼女は多くの不安を抱えているはずである。それでも弱音を吐くことが出来ないのが今の彼女の、そしてガダラルの地位。 違和感があろうと、その目に戦う意思を宿している限り、戦場へ出なければならない。 鎧のかみ合わせを確認する音と、二人分のため息。それに五蛇将の要が幾分遠慮気味にドアをノックする音が重なったのは、窓から差し込む橙の光に青が混ざり始めた頃であった。 「入っても大丈夫だろうか」 「もう支度は終わっているわ、どうぞ」 「帰ってきてすぐなのにすまない、家に帰る時間すら与えられなかった……」 「いいのよ、この事態でそんな時間をもらえたえら、逆にこちらが謝ることになるわ」 にこりと笑ってルガジーンを受け入れたナジュリスは、そのままドアへ向かって足を進めていく。ガダラルが声をかけようとすると、軽く唇に指を当て、意味ありげに笑ってから無言で消えてしまった。 さっきの事は他言無用、そういうことだろう。 「君は大丈夫なのか?」 「俺を心配するって事はな、自分を心配するって事だ。貴様が治したのに、それを信じられないのか?」 「そういうわけではないのだが……」 頭一つ高い長身が、何度もガダラルの体を隅々まで見つめている。 将としての体が癒えたかどうかの確認であり、恋人として余計な傷跡や怪我がまだ残っていないかを心配している姿でもあり。だがそれ以上に、その目は何かを言いたがっていた。 何を言いたいのかを聞く為に口を開こうとした瞬間、 「いい知らせと悪い知らせがある」 ルガジーンの口が、言いにくそうにそう動いた。 |