泣きながらしがみつく子供に優しい笑顔を見せ、全ての外敵から守るかのようにその腕で抱き留めていた存在と、自分の目の前で数日分の空腹を紛らわすために食物をわしづかみしている人間は本当に同一人物なのか。
「ガダラル……少しは落ち着いて食べないと……」
「水」
「あ、ああ……」
 切れのある一言と共に差し出された器に、言葉少なに水を注いでやる。
 何がどうなったら皇宮に不法侵入する羽目になるんだとか、それ以前に自分に隠していたことは何だったんだとか、あの子供は一体何者なのかとか。それはもう聞きたいことがたくさんあった訳なのだが。
 ベッドの上に皿を置き、行儀が悪いことこの上ない食べ方をしているガダラルを見たら、聞く気が失せてしまった。彼にとって何か大事なことがあって、いてもたってもいられずに行動し、そのつけが自分に回ってきただけ。
 よく考えれば、いつもそんな感じのような気もするが、それはもう考えないことにしている。一本気で強情でわがままで、そのくせ誰よりも優しい男を愛してしまったのは自分なのだから。惚れてしまったものの負けとはよくいったものだと考えながら、ルガジーンは、しばらく無言で恋人の食事風景を見つめ続けていた。
 食べ物を掴む指すら食べてしまいそうな勢いのガダラルだったが、ぐいっと水を飲み干すとようやく人心地ついたらしい。赤い肉の見える手首を見せながら髪をかき上げ、満足げに大きく頷いた。
「あれも多少は火加減がわかるようになったな」
「ガダラル」
「なんだ?」
「…………いや」
 自分から聞いても、何も彼は話してくれない。
 それこそ泣きながらガダラルにすがり、本音をぶちまけたあの子のように、全てをかなぐり捨てて伝えなければ彼は何も答えてくれないだろう。体裁とか、上司として、仲間としての感情とか。そんな生まれたときには持っていなかった余計なものを介して関わっても、それなりの対応しかしてくれない。
 鋭く光る鋼を磨き上げた、わずかの歪みも許さない鏡のように。
 好意には好意、真実には真実。受け止めたものをまっすぐに返してくるあり方と生き様は、時折嫌味にすら感じることがある。普通に生きているだけでは絶対にたどり着けない、ある意味突き抜けた生き様。
「聞きたいことがあるんだろう?」
 皮膚が裂けていようと体から血が失われていたとしても、決して揺るがぬまばゆい眼光が静かにルガジーンに向けられる。
 処分については、目覚めてすぐに伝えてあった。
 少なくとも星芒祭が終わるまでは蛮族の襲撃があっても自宅謹慎、それとしばらくの間の減俸。一切反論せず素直に頷いたガダラルは、それからすぐ小さな少女との再会を果たし、派手に説教を喰らうことになって。
 ようやく、彼から口火を切ってくれたのだが、何を聞いていいのかわからないというのが本音である。聞かなければならないことも、聞きたいことも、それはもう山ほどあるわけだが、一つだけ聞きたいが聞けない事があった。
「ガダラル……その…………」
「ああ、ラウバーンは貴様より上手かったぞ」
「………………………………………………」
「どうした? 聞きたかったのはそれじゃないのか?」
「…………一番聞きたくないことだったのだが……」
 すまん、とあっさり謝りながら、ガダラルはふと宙に目線をさまよわせる。
 気まずいというわけではなく、まるで何かを悼んでいるかのように目を伏せながら、死者へ向ける祈りを声なき声で紡いでいるかのように。
 どこか哀れむように、小さな声で呟く。
「優しいのではなく、情けなのだろうな」
「情け?」
「水に浮いた月を飲み干そうとする莫迦野郎か…………哀れな男だ」
 しみじみとそう口にする横顔が、月の光を受けて青白く輝いた。
 普段では考えられないほどの肌の白さは、まるで彼こそ月の光に映った影のようで。手を触れれば、それこそ水に映った月のようにこの世からすぐに消え去ってしまうのでは。そんな不吉な考えをルガジーンの中に生み出してしまうほど、今のガダラルは澄んで何の邪気も感じられない目をしていた。
 慌てて手を伸ばしてベッドから出ている彼の手を強く握りしめる。これが月に写った偽りの姿ではないと自分に言い聞かせるため、そして自分のわからぬ何かを背負い込んできた彼を受け止めるために。
 今この瞬間を夢幻にしてしまわぬよう、強く、自分の熱を彼に刻み込む。
「もう勝手に皇宮に忍び込んだり、謀反と勘違いされるようなことをしたりしないでくれ」
「次の虫干しがいつになるかわからんからな、次にやるとしたらその時だが、もうできんな……さすがにもう許されんだろう、今のやり方ならな」
「当たり前だ…………虫干しとは?」
「書庫の虫干しだ。普段は地虫のように隠れている不滅隊の馬鹿どもたちも、さすがにその時には機密の文書を吐き出さないわけにはいかんらしい」
「それはわかった。だが君はそこから何を知ろうとした?」
 疲れが強く残っているのだろう、どこかぼうっとした目のままのガダラルの指にわずかに力がこもった。ルガジーンの指の感触と暖かさを確かめるかのように、たどたどしく指を絡めて、口では言えない何かをそこで伝えるために。ベッドのシーツにルガジーンの手を縫い止めるかのように、そこだけに力がこもる。
 所在なげに己の置き場所を探し続ける指は、愛しい人に会えた安堵と喜びを素直に伝えてきていた。決して弱音を吐かない口とは正反対に。
 無言でその手を包み返す。
 と、どんなときも己を見失わない堅く強い声がルガジーンの耳に届いた。
「星芒祭が終わったら……その時全てを話す、それでいいな?」
「私は構わないが、何故」
「あれには最後の星芒祭になるかもしれん」
 それまでは普通に過ごさせてやりたい。
 どこか悲しげに、だが笑顔でそう言ったガダラルの体を抱き寄せたい衝動に駆られ、そしてそれを実行しようとした時。
「で、あの年頃の子供には何を買ってやればいいんだ?」
「星芒祭には何かを買う必要が?」
「あれに聞いた話だと、木を光の魔法で飾り付けて、ケーキを焼いて、肉を焼いて、子供はプレゼントがもらえて、プレゼントを持ちながら木のまわりで歌って踊るらしいぞ」
「い、意味がわかりにくい祭なのだな……」
「ケーキの作り方は忍び込むついでにメモしてきたんだが、そのメモをなくしてしまってな……しょうがないから今度は別の手で侵入するか」
 心底残念そうに息を吐くガダラルの生々しい傷跡の残る部分、そしてあんだけひどい目にあっても全然懲りていない様子を見て。

 仕置き決定だな。

 こんだけ痛い目にあってもまったく懲りていない。
 またこんなことを起こされれば、自分たちだけではなく他の者も確実に巻き込むだろう。それに自分がどれだけショックを受けたかもわからずに、あっさりとラウバーンを許しているような口ぶりにも腹が立つ。
 さて、彼が一番ダメージを受けるのはどういうことなのか。
 何をされてもしぶとく回復してくれるのは背中を預ける同僚としても恋人としても非常に有り難いのだが、しぶとすぎるのも問題だなと苦笑いするしかないルガジーンだった。