誰にも手伝わせず、身支度を調える。
 軽く薄っぺらい刃を包み込む贅の限りを尽くした儀礼用の鞘、金糸で飾り立てられた深紅のマント。兜をつけられぬかわりに、頭をマントと共布で作られた正式の頭巾で覆う。襟足から覗く髪も整え、鏡の前で最後の確認をしていると、遠慮のかけらもないノックと共に、大柄な体がほとんど足音を立てずに入ってきた。
「ザザーグ……君か」
「こっちにいると聞いたんでな。それにしても、派手な格好だなこりゃ」
「正装なんていうものは、目立った方が勝ちということだろう」
「行くのか」
 自室にずかずかと入り込んで、近場にあった椅子に腰掛けたザザーグに無言で頷いてみせる。
 ガダラルが姿を消して4日目、そしてあの少女も2日目の夜に姿を消した。少女の方はガダラルから頼まれたという人間から、こちらで預かっているので心配いりませんという連絡が来たのだが、ガダラルからは何の連絡もないまま。
 本人が行きそうな所、行く必要のあるところ、蛮族の可能性も考えた。
 だがその全てに彼がいた痕跡すらなかった事から、考えられた結論は一つ。彼が自分の痕跡を完全に消していかなければならない、行ったことが知られただけで自分だけでなく周囲にも危険が降りかかる場所。
 皇宮へ行ったにちがいない。
 ガダラルが深夜に時折皇宮を訪れていること、周囲の目を盗んで三国と連絡を取り合っていることは知っていた。だが本人が知らぬと言い張ることをそれ以上追求するわけにはいかず、苛々した思いを隠しながら黙認してきたが。こういう状況になってしまったのだから、もう黙っていることはできない。
 三国と連絡を取るために仲介役になっていたミリ、そして周囲をごまかすために力を貸していたナジュリスを先程かなりきつく叱りつけてきた。しかし二人が事の真相について話すことはなく。最初からガダラルにそう指示されていたのか、何かを堪えるような顔でガダラルに協力を強制されたと言い続ける姿は、ガダラルが以前からどれだけ準備をして来たのかを十分に理解させられた。
 ついに泣き出してしまったミリをこれ以上怒るわけにもいかず、後のことを二人に任せ自宅に帰って準備を始めたのだが、ザザーグはどこで何を聞きつけてきたのだろうか?
 それを素直に聞いてみると、豪快な笑顔の奥に冷静すぎる頭脳を隠し持った信頼すべき仲間は、懐から一通の書状を取り出した。
 それをルガジーンに投げてよこすと、普段通りの暖かみのある声で開けて中身を確認するようにと告げる。
「あいつが欲しがってたもんだ、さっさと届けてきてやんな」
「……………………これは……」
「人一人を守るには力があればいいってもんじゃねえ。まあ口添えを頼んできたのはあいつだが、俺はあの嬢ちゃんの身内に大きな借りがあってな」
「君も全て知っていたのか?」
「いらないことは聞かない、それが処世術ってやつだろう? それにな、俺らが知ってる真相ってやつは、あの我が儘野郎の知ってる『真実』には及ばないって事よ」
 ザザーグの持ってきた書状。
 これが届くことがわかっていたから、ガダラルは無謀な行為に及んだのだろうか。自分の地位や身分を全て失う可能性があるというのに、自分と関わりの無かった少女を守ることを選んで。
 心配し続けた自分のことなど全く考えずに。
 最初はあの少女に嫉妬してつい冷たく当たったこともあったが、三人で過ごす日々は優しく暖かかった。小さな思い出が積み重なって記憶となり、それが家族という名の個体を作り上げる。それなのにガダラルは、三人で作り上げた絆よりもそれを壊して自分以外を守る選択肢を選んでしまった。
 自分も守るべきものもどちらも守りきる、三人で考えればそれもできたはずなのに。
「ザザーグ……礼を言う」
「礼なら嬢ちゃんに言いな、これはあの嬢ちゃんが招いた結果だ」
「確かにそうだな」
 ザザーグと話をしながら、各所の点検を行う。
 今まで正礼装で皇宮に出仕したことなど、年に数回しかなかった。聖皇の公的な招聘か、それか宮中の式典だけ。聖皇の剣であり盾である存在である自分が、戦うためではない装束で聖皇の前に立つのは、自分の意味をなくす。
 そう思っていたが、これから行うことは別な意味での戦い。
 剣を用いず、誰も傷つけず、大切な存在を取り戻す。人を傷つけるために作られていない刃も、華麗なだけの鎧も、自分に立場と地位という盾を与えるためのもの。
「ミリとナジュリスを頼む。そして私に何かあった場合は君が後のことを」
「わかった、せいぜい派手に喧嘩してこい」
 不敵な笑顔のザザーグに見送られ、紅の正装を纏ったルガジーンは大切な人を取り戻すための戦いに向かった。








 宰相に面会の申し入れをしてから、わずかの時間も空かずに自室へと招かれた。
 何かの目的を隠しているのか、それとも別な意図があるからかはわからないが、案内してくれている不滅隊の青年の顔からは何も読み取ることができない。ガダラルは彼らのこういうところが嫌いだと以前言っていたなと思い返しつつ、自分の前だけでなく背後にまで案内役がついていることに、自分の考えが間違っていなかったことを確信させられる。
 自分が宰相に害を与える可能性があるからこそ、これだけ案内が物々しいのだ。
 賊が侵入しづらいように長く複雑な廊下、その一番奥にある宰相の私室へと繋がる扉は魔法も剣も通さないために分厚く、そして複雑な文様が刻み込まれている。それに不滅隊の青年が触れ、わからぬ言葉で数言呟くと、扉はわざとらしいほどのきしんだ音を立てて開き始めた。
「よく来たな、天蛇将」
「宰相様にはご機嫌麗し…………っ!」
「どうした? 何か気になるものでもあったか?」
 悪意と歓喜に彩られた笑いが、ルガジーンを迎え入れる。
 剣を振り回しにくいように、随所につり下げられた飾り布。私室ということもあり、一段高い場所で足を崩しくつろいでいる姿には、王者の休息と言うべき風情が漂っていた。年若い聖皇には、これだけの威厳と王者としての誇りを持つことはまだできないだろう。
 優雅にクッションに体を預け、片手に持つ鎖の先にあるものさえ見なければ、ルガジーンは素直に彼の王者としての威厳に頭を下げることもできたのだが。
「…………宰相……様……」
「これか? 我が不滅隊の機密を盗もうとした不届き者だが」
 首にはめられた金属の枷、そこから延びた鎖が遠慮無く宰相によって強く引かれる。
 それでも苦鳴の声すらあげず、首からにじむ血を更に広げていく姿には、向こう見ずだがどんな苦境にも屈しない生来の武将の姿はなかった。
 囚人の服と何ら変わらぬ白く薄い布地の衣のあちこちに乾いて色あせた血がこびりつき、手首の枷の周辺の皮膚の色が赤黒く変わり始めている。それでも床に伏すことなく、腕の力だけで体を起こしているのは、彼の最後の矜持なのだろうが。
 その目には、もう意思の色はわずかも宿ってはいなかった。
「…………彼……炎蛇将がどれだけの機密に触れたかはわかりませんが、彼がいなければ皇都の防衛はなされません。彼の罰則については私が軍紀に則り……」
「これが炎蛇将だと認めるのか?」
「認めなければ貴方は彼をこの場で処分するでしょう。我々と何の関係もない賊なら、処分することにためらう必要はないはずですから」
「なるほど、これほどではないが中々面白い」
 宰相が更に強く鎖を引くと、さすがにガダラルの体が床に倒れ伏した。その音が異常な程軽く、彼がこの数日でどれだけ痛めつけられたのか、追い詰められたのかをルガジーンにまざまざと突きつけてきたが。
 まだ彼を助け起こしには行けない。
 それをできるのはここを出る時。この窓が一つもなく時間の経過すらわからぬ場所で、目の前の男を言葉で打ち倒さなければできないことなのだ。
 ザザーグが用意してくれた切り札はまだ使えない、宰相から少しでも条件を引き出さなくては。自分どころかなにも映さぬまま床に倒れ伏すガダラルの姿を見ているだけで、目の前の男を切り刻んでやりたい衝動に駆られるが、その衝動すら押し殺して彼を救う力に変えなければいけない。
 部屋に入った瞬間に目に入った光景のせいで足が止まったが、宰相に動揺を気取られぬように後ろに控える不滅隊の青年に剣を預け、彼の近くまで足を進める。足元で呼吸をしているだけの愛しい存在に、心の中で言葉をかけた。
 色々といいたいことはある、だが生きていてくれてありがとう、と。
「彼を返していただけるのでしょうか? 先程も申し上げましたが、これ以上の彼の不在は皇都の存亡に関わります」
「人民街区の滅びがアルザビ全土の滅びに繋がると? 随分とうぬぼれたものだな、己らの力と影響力はそこまでのものだというのか」
「魔笛の力なしに繁栄はあり得ぬと申し上げたのは宰相様かと」
「だが魔笛を守るのは誰でもいいはずだが、別にこれでも貴公でなくてもな」
 床に広がるガダラルの髪に目をやった宰相は、笑いをかみ殺しながら言葉を続ける。
「むしろこれには男娼の方が似合ってるやもしれん。男には興味のない奴らも、随分と気を引かれていたようだったからな」
 ぞわりと、何かが背筋をはい上がっていく。
 怒りなのか、それとも悲しみなのか、簡単に名前をつけ整理できるような軽い感情ではない何か。男の多い軍では、同性間の性交渉は聞かない話ではないが、床に倒れ伏したままのガダラルの姿を見ればそれが無理矢理行われたことは想像するまでもない。
 唇を噛みながら、内から沸き上がる衝動を抑え込もうとするルガジーンを尻目に、宰相は楽しげに笑い続けている。
「蒼き獅子になれば不問にしようと言ったのだがな、すさまじい勢いで断られてな。だがこのまま処刑するには惜しい、ならば気持ちが変わるまでこちらに滞在していただこうと思ったのだが」
「気持ちを変えるために、痛めつけるという行為は間違っているのでは?」
「説得だ、それ以上でもそれ以下でもない」
 そう言い切った宰相に、それ以上事を追求することをあきらめる。
 下手にこの件だけ追求していけば、宰相は話の中心をこちらに持って行って、ルガジーンだけでなくガダラルにまで更なる罪を着せかねない。
 そんなルガジーンの計算を察知したのか、鎖を引く手を離さぬまま、宰相の目がルガジーンを射抜く。
「天蛇将、確か炎蛇将には養い子がいたと聞いているが」
「侍女は一人雇っていたようでしたが、養い子ではなかったかと」
「その少女についても炎蛇将と常々話していてな。並々ならぬ魔法の資質を持つと聞く、是非とも出仕して我が国のために力を尽くしてもらいたいと頼んでいたのだが。それに関しても拒否されている」
 そこでいったん言葉を切った宰相の唇から、ぞっとするほど優しい声。
「炎蛇将の件は不問にしよう、このまま連れて帰るがいい。ただし、その少女が皇宮に出仕するように説得することが条件だ、それさえ行えば私は今後貴公らを拘束することはしないと誓おう」
「私は彼女の保護者ではありません、彼女の保護者と交渉するとよろしいでしょう」
「だが肝心の炎蛇将はこの状態だ」
 交渉などできるわけないだろうと言いたげに唇を歪める姿に、ようやく宰相の意図が飲み込めた。ガダラルはあくまでも少女を釣る餌、保護者である彼を人事不省の状態にして、有無を言わせずに少女を自分の内側に招き入れるつもりだったのだろう。
 そして、ガダラルをもそのまま戦力として手に入れるつもりで。
 ガダラルはこういう状況になることを予測していたのだろうか、自分が動けず少女を守れぬことが近い将来確実に起こることを。そうであれば自分を頼らずに全てを終わらせようとしたと言うことで、更に腹立たしくなってくるが、この状況では彼の先見の明がここまで有り難く感じたことはない。
「彼女の保護者が炎蛇将だと、誰が決めたのですか?」
「どういうことだ?」
「バストゥーク共和国大統領補佐官ルシウス殿が彼女の後見人となっております。先日のバストゥークでの鉱山視察の折に、彼女を大層気に入られたそうで」
 何故わざわざ彼女を手放すのか、疑問に思ったこともあった。
 これを完全に見越したわけではないだろうが、ザザーグは昔の人脈を使って彼女の後見人を用意してくれていた。どれだけの手間がかかったのかは、彼女がバストゥークから戻ってきて今までかかっていることでわかるが。
 それ以上に驚いたのは、後見人を用意した後の事だった。
「彼女の後見人であるルシウス殿から、アトルガン皇国での彼女の保護責任はこの私に一任するという書状を頂いております」
「………………なに?」
「つまり、今後彼女に関することを相談するのは私にしていただきたい。炎蛇将は無関係ということです」
「確認させてもらおう」
 いつの間にか横に来ていた不滅隊の若者に、用意してきていた書状を差し出す。
「この書状はあくまで写し、本物はバストゥーク本国にあることを心に留め置いていただきたい。必要があるのなら、バストゥークに確認していただければ」
「わかっている」
 宰相の口ぶりに、始めて苛立ちの色が混ざった。
 ルガジーンとしては一刻も早くここからガダラルを連れ出したいが、ここでわずかでも焦りを見せれば彼にそれを感づかれてしまう。死んでいるのではないかと疑ってしまうほど瞬きの回数も少なく、角度的にルガジーンの顔が見えるというのに何の反応も示さないガダラルは、何らかの処置をされているのだろう。
 ここにいた間のことを覚えていなければよいのだが。
「…………本物だな」
「私が偽物を持ってくると?」
「嫌味な男だ。まあよい、それではあの少女の身柄については今後は貴公と話をさせていただこう。炎蛇将も軍紀に従って処理するがいい」
「宰相様の有り難きご配慮に心より感謝いたします」
「そんなことはわずかにも思っていないくせに……忠誠心が自慢の無骨な犬だと思っていたが、思ったより口は立つようだな」
 ラウバーン、と宰相が一言呼ぶと折り重ねられた布の間からやせ細った男が一人進み出てくる。不滅隊の制服に身を包んだ、ルガジーンでも気配を察することができない、国家の犬とでも言うべき男。
「お呼びでしょうか」
「天蛇将を送ってやれ。これを持って帰るのなら両手が塞がって色々と不自由だろう」
 もうその口ぶりには、苛立ちも失望も表れることはない。
 また新たな策を練っているのだろうが、今回はとりあえず素直に返してくれるようだ。ラウバーンをつけられた事は少し気になるが、あの書状を目の前に突きつけられた状況で、すぐに新たな手を実行することはできないだろう。
 宰相に見つめられながら、ゆっくりと震える手を押さえ込みながらガダラルに触れる。
 最初は熱を持った肩に、次は鬱血の激しい手首に。
 ラウバーンが無言で枷を外してくれるが、服に隠された部分がどれだけ傷ついているか、想像だにしたくない。マントを乱暴に外すと、彼の体を急いでくるむ。耐えようと必死に自分に言い聞かせていたが、もう我慢できなくなっていた。
「それでは宰相様、失礼いたします」
「炎蛇将に体をしっかり癒すように伝えておけ」
「…………」
 貴様が傷つけたくせに。
 その言葉を必死に飲み込み、
「わかりました……必ず伝えておきましょう」
 そう口にすることができた自分をねぎらいつつ、ルガジーンは腕の中にあるぬくもりにだけ気持ちを集中し、その部屋を後にした。