頭に堅いものがぶつかる感触で目が覚めた。
 目を開けば自分を守るかのように作られた本の壁、それとほんわりと周囲を照らす魔法の灯り。本を下敷きにして眠っていたのか背中がかなり痛むが、起き上がるのに邪魔になるほどではなかった。
 体を起こし周囲をぼーっと見つめてから、さてここはどこだったろうかと記憶を辿ってみる。
 よっぽど熟睡していたのか、でてくるのは帰りに買って帰る食材のリストや、明日の予定など。くだらなくはないが今は役に立たないことばかり。本を置く場所特有のかび臭い空気を少しずつ肺に取り込みながら、少し灯りの出力をあげようと書棚に吊してある灯りを手に取ろうとして。
 逆の手が羊皮紙の束に触れた。
「…………ああ…………そうだったな…………」
 辺りに本を散らかしながら、自分が書き付けた紙の束。
 細密な魔法理論の計算の下に、傭兵達から聞いた星芒祭の料理の作り方を書いてあったりと、混沌極まりないが目的のものを書き写すことはできていたようだ。少ない休日を利用して朝から来てみたのだが、眠ってしまったところを見るとかなりの長時間ここで読書に励んでいたらしい。

 皇宮の大書庫。

 蔵書の数はかなりのものだが、管理している人間が独断で整理しているからか、調べ物をするのに異常に時間がかかる。ここにしかない書物でなければ、わざわざ来ることもなかったし、探す手間もそんなにかからなかった。
 そして、誰にも見つからずに逃げる必要もなかっただろう。
 我ながら危ない橋を渡りまくっているなと思いながら、ガダラルは大きく伸びをしながら書き付けを懐に収めようとして、
「よう、宰相の腰巾着」
 床に細い剣で縫い止められた書き付けと、剣の持ち主に軽く手を振ってにこやかに挨拶を返してやった。
「不滅隊の機密事項を外に持ち出されては困るのですが」
「紙に書かれて持ち出されると困るなら、覚えて帰るなら困らないということだな」
「そうであれば、貴公を拘束させていただくことになります」
「うちのガキが腹を空かせて待ってる、帰らせてもらうぞ」
「ならばお二人でこちらに住んでいただければよいだけの話では?」
 喜怒哀楽の内、3つは思いっきり外に出すことを信条としているガダラルにとって、自分を見上げている男は苦手中の苦手といって良かった。口を動かして話すことと、瞬きをすること以外は全ての機能を放棄した顔。国と宰相のためにこの身を尽くすと公言してはばからない、狂っていると表現してもおかしくない行き過ぎた忠誠心。
 自分もおかしいと言われるが、この男に比べればよっぽど普通だ。
 いや、こんな枯れた巨木のような男と一緒にされる方が迷惑極まりない。国という巨大なシステムを維持するために、己をそのシステムの一部としたような存在。一体彼は何を望み、何を愛し、何を喜びとしているのか。そういうものが見えない人間は、基本的に苦手だった。
 国と宰相に対する忠誠心や、規律を守るが完全な堅物ではないところは嫌いではないのだが。
「引っ越し料金は負担してくれるのか?」
「少々お待ちいただければ、どれだけを経費として計上できるか仮の金額をお出しできますが」
「…………少しは冗談を理解してくれ……………………」
 嫌いと苦手は違うのである。
 よりにもよってこれと会うことになるとは、と居眠りしたことをちょっと後悔しつつ、ガダラルは何とかこの事態を打破する方法を考え始める。目の前で刃物に蹂躙されている書き付けを何とか家まで持って帰りたいが、それはもう無理だろう。自分の隊の機密中の機密を持って帰ることを許す隊長がいるわけがない。
 それ以前に見つかってしまった以上、罰せられることは間違いない。
 戦いに持ち込んでも、勝てる見込みはまずないだろう。ここは素直に謝罪して、家に帰れるよう頼むべきか。
 いや、それも無理だろう。
 この男の判断基準は、国と不滅隊の安泰。それを乱すような行為を行った自分を、許すわけがない。
 ならば……
「ガダラル将軍、一つお聞きしたい」
 死ぬ気で戦ってやるかと、こっそり詠唱を始めようとしたところに、ひび割れた大地のような声。
「なんだ?」
「貴公にとってこの国は、アトルガン皇国はどういうものなのでしょう?」
「俺の故郷で、金を払って喰わせてくれるところだ」
「ならば貴方は蛮族が喰わせてくれるというのなら、蛮族に寝返ると?」
「おかしな事を聞く……そんなことがあるわけないだろう。あいつらは俺の魔法で全て滅ぼしてやる」
 では何故?
 珍しく布に覆われていない口元が、そう問うてくる。
「何故…………簡単なことだろう?」
「簡単、とは」
「目の前に助けを求めている奴がいて、助けることができるのに助けない奴はただの馬鹿だ。そして俺は馬鹿じゃない」
 どれだけ追い詰められ、滅びに向かおうとしている国であったとしても。
 どうにかすることができるものを見捨てるほど、愚かにも、弱虫にもなりたくない。この国を救ってやるという力故の傲慢ではなく、自らを尊び更に前へ進ませるために、この国を守ることを選んだ。
 ただそれだけだ。
 その守る対象に、自分の帰りを家で待っているあの小さな子供や、一本気でまっすぐでどうしようもなく生きることに不器用な恋人が入っているだけで。
 何を当たり前のことを聞いてくるのだろう。
 守るべき存在があるのなら、それのために力を尽くし、できる限りのことをするのは当然のことである。己の家に住み、共に過ごし、家族と呼んでもいい存在ならなおのこと。
 愛する者のために、命を賭けられるのが人という存在だ。
 目の前の男ほど大きな者を守ろうと思っているわけではないが、少なくとも目の前にいる人間くらいは守りたい。
「……わかりました」
「おかしな問答はもういいだろう、この書き付けも置いていく。後は貴様で勝手に処分…………ああ、駄目だ」
「何か不都合でも?」
「そっちの……それだ。帰ったらあれにケーキを焼いてやる約束をしたのでな」
 殺気も何も感じない相手に、油断したのかもしれない。
 同じ国を守るという意思を持っている人間が、この国のシステムをよく理解している人間が、五蛇将である自分をそんなに簡単に抹殺しないだろうと思ったのも事実。
 剣を抜いて書き付けを解放してくれた相手に目で礼を言い、該当の部分だけを雑に切り取ると、残りの部分は未だに自分を見下ろしている相手に差し出す。
 後で宰相にがっつりと叱られるだろうとは思ったが、とりあえず今は家に帰った方がいいだろう。家に帰って、もう一度自分以外の誰が来ても家に入れないように、話すらしないよう言い含めなくては。そして、もう一度非常時の確認をあの子にしなくてはいけない。
 宰相への謝罪はそれからだ。
「素直にご協力いただいてありがとうございます」
 相手の手に渡った書き付けは、あっという間に青白い炎によって灰にされていく。羊皮紙が焼けるときの特有の匂いをかぎながら、せめて内容を覚えておけば良かったと考えた瞬間。

 自分で書き写したはずなのに、何故内容を一つも覚えていない?

 当然のような疑問が、ガダラルの脳裏に瞬時にひらめく。
「気がつかれましたか?」
「貴様、まさか…………っ!」
「それでは『もう一度』ゆっくりお休みください」
 目の前の相手の目が大きく見開かれ、その瞳が澄んだ光芒を放ち始めたと理解したときにはもう遅かった。食い破られ始める意識、繋がらなくなる思考。
 せめて目の前の相手に一矢報いてやろうと拳を握り。
 前に突きだそうとしたところで、その拳ごと相手に抱き留められた。
「あなたの忠誠心は確認させていただきました……宰相も悪いようにはしないでしょう」
 ゆっくり休めとでも言いたげに背中を優しく叩かれるが、それは嫌悪と寒気しか生まず。意識を無理矢理閉ざされる直前、最後に口にできたのは。



 大切な、二人の人物の名前だけだった。