先触れが来たのが数日前。
 無事に五体満足で、そして宿題もちゃんと達成して帰ってくることに少しだけ安心して。ほっと一息つきたいところなのだが、現状がそれを許してくれなかった。
「ミリ……貴様いい加減にしろ……」
「ボクなりに綺麗にしようと思ったのに〜」
「こんな馬鹿みたいな偽装、すぐに見つかるに決まってるだろう!」
 贅沢を好まないルガジーンが唯一こだわっているというか気に入っているのが、座り仕事用に使っている椅子である。外部の客と面会するための場所であるルガジーンの執務室に粗末な家具を置くわけにいかず、そこだけはある程度の値段の家具で整えられているのだが。
 その一見質素に見えるが最高級の素材を使って作られた椅子が、見事に墨汁で染まっていた。
 手が触れる部分は毛皮で作られているのだが、その部分が黒く染まり。ミリなりに何とかしようとした努力の跡は見られるのだが、ルガジーンがこれを見たら卒倒して数日間引きこもる可能性もある。
 それ以上に、ぺたぺたと染料を椅子に塗ってごまかそうとしているミリを見たら、首をくくるかもしれない。
「素直にルガジーンに謝って職人に直してもらえ、毛皮の張り替えをすれば見た目は元に戻るだろう」
「えっと、それだけじゃなくて……」
 と、わざとらしいほど可愛く笑ったミリが肘掛けの部分に手をやると、その部分が地面に派手な音を立てて転がった。
 一瞬の静寂。
 その後、ごめんなさいごめんなさいと謝るミリを蹴倒し、散々しかりつけた後。これを今は街の巡回に出ているルガジーンにどう説明し、どう納得してもらうべきか二人で考えることにした。
 やってしまったこと、起きてしまったことはもうどうしようもない。大事なのは、これからどうすべきか、どうやって最悪の状況を防ぐかという事で。
 ミリと椅子の破損状況を確認しながら、これから自分がどうすべきか思考を巡らせる。

「毛皮はもう駄目だな、一度染まったものはもう元には戻らない」

 一度変わってしまえば、もう元に戻ることはできない。

「ここも折れてしまっているな、直しても継ぎ目が目立つか」

 治ったように見えても、治した跡は残る。

「こんな所にも傷を作ったのか、時間がたったら広がってここから割れるぞ」

 普段は見えない傷も、時間をかけて全てを壊していく。

「大体貴様は物の扱いが乱暴なんだ、もう少し大事に……」
「……ねえガダラル?」
 椅子の周りを回りながら椅子の破損状況を調べるガダラルに、静かな声がかけられる。顔を上げれば、心配そうなミリの顔が目の前にあり。
 そして肩に無言で手が置かれた。
「あのなミリ……これは貴様が壊して」
「椅子は壊れたら直らないけど、人間は治せるんだから。傷は残っても、生きていられるんだから」

 だから、そんな顔をしないで。

 ぎゅっと顔をしかめて肩を掴む手に力を込めるミリの頭を撫でてやりながら、ミリを不安にさせるような顔をしていたのかともう片方の手で自分の頬に触れてみる。こわばった堅い頬、力のこもった唇。
 これでは誰が見ても自分が不安を抱いていることを悟ってしまうだろう。
 情けないと自分を叱咤しながらも、この場にルガジーンがいなかったことに少しだけ安堵する。事情を知っているミリには見せられても、彼にはこんな顔を見せるわけにはいかない。
 彼を欺くと決めたのだから、最後まで騙さなければ。
「ミリ、わかってると思うが」
「大丈夫、誰にも言わないよ!」
「そうか……ならもう少しだけ…………」
 このままでいさせろ、消えそうな声でそう呟くと。

 少女の愛らしさに大人の女の艶が混じり始めた笑顔が、ガダラルを包み込んでくれた。