体にからみつく布をゆっくりと滑り落としていくと、いかにもやる気のなさそうな吐息が耳の横を通り過ぎた。力を抜いて身を任せたいのか、それとも逃げ出すために力を入れようとしているのか。それさえわからない裸の肩に手を置くと、そのまま体重をかけて横になったまま反応を示さない象牙色の肌をぎゅっと抱きしめた。 もともとこういう面では気まぐれなのか、気分が乗っているときにはこちらが驚くほど積極的に誘ってくるのだが、無反応ということは今までなかったといってもいい。色々忘れるのにこういうものは都合がいいとぽつりと呟くこともあり、そういう要素を加えても基本的には嫌いではないのだろう。 だが今日は。 あまり見せたがらない形のいい小さめの耳や、肉の薄い顎のラインに舌を這わせても、聞こえる息に熱がこもることなく。 そのくせこちらを拒むこともないのだから、さすがに少し腹が立ってきた。 「気にしているのは、あの子供のことか?」 「子供? ああ、あれのことか」 「あのタルタルを拾ってきてから、君は明らかにおかしい。いや、ミリやナジュリスもだな。彼女らが君の家に頻繁に通っていることを、私が知らないとでも」 「飯をたかりに来ているだけだ」 どれだけ同じ夜を越えても、素肌をあわせて眠っても、理解できないことはあるのだがが。 明らかにこの頃のガダラルは異常だった。 五蛇将としての責務は今までと変わらずにこなしているが、それが終わればさっさと私邸に戻り、何かを待つように夜の時間を過ごす。時折今まで来ることがなかった客人を迎え入れては夜通し語り合い、そして徐々に顔に苦悩の色を深めていく。 他人にわからぬように細心の注意をはかっているのだろうが、彼以上に彼のことを見ているルガジーンにわからないわけがない。 いつもと変わらぬ傲岸不遜な発言の合間に、わずかに瞳を曇らせ。 何かを悩むのなら誰かに救いを求めればいいのに、己の中の苦しみを堅く鋭く鍛え上げ、またそれで己の心を突き刺していく。 無理矢理にでも口を割らせようと決意し訪問したのだが、いつもと変わらぬ口ぶりを装い、さっさと続きをしろとでも言いたげに顎をしゃくる様から推察するに、言わせるには相当な努力が必要だろう。 それでも、言ってくれるかどうか。 飢えた犬のように鎖骨に齧り付き、脇から腰にかけて指を滑らせると、ようやく軽く体が震える。わずかに開いた足の間に入れた自分の足が強く挟まれるのを確認し、今日はこのまま彼の体に溺れてしまおうと逃避しそうになった意識を止めたのは、 「何も言わんぞ」 頭の上から響いた、冷め切ったガダラルの声だった。 「私は君を心配しているだけだ。別にミリやナジュリスが君の家を訪れようと文句を言うつもりはない、だが……不滅隊までここに来るとはどういうことだ?」 「青魔法の文献を宰相に頼んでいるんでな、届けに来てくれている」 「不滅隊を嫌っている君が青魔法の文献を? ずいぶん短時間に趣旨が変わったものだな」 ちらりと上目で彼を見やれば、舌打ちでもしかねない苦い顔をしていて。 昔からの因縁か、彼の不滅隊嫌いは有名である。それがいきなり手のひらを返して、というのはどう考えてもあり得ない話で。己の信条を曲げてまでしなければならない何かがある、と考えるしかないのだ。 ならばその重さを自分に分けて欲しい、そんな思いを込めて口にした言葉。 「もし、あの子供が原因ならば、私がいい引取先を探して……」 「ルガジーン」 いい引取先を探して、幸せになることができるように。 そう伝える前に、ガダラルに髪を引っ張られた。何かと思って上を向くと、滅多に見せない華やかと言ってもいいほども笑顔。 そして、 「出て行けっ!!!」 おまえ本当に魔法使いか、頭脳労働者か。と、つっこみを入れたくなるほどの強烈な拳の一撃が顔に襲いかかった。 中途半端に快楽の火を入れられた体をさますのに、少し時間がかかった。 ついでに本気で殴ったために腫れ上がった拳も冷やすと、仕事用の椅子に腰掛け、一番側にあった本を手に取ってみる。 青魔法についての最新の研究書、ただし民間レベルに出すことができるレベルの最新であるのだが。とりあえず理論を理解してからということで借りた物だが、外に流出できるレベルでこれだけの研究が進んでいるということは、宰相はどこまで青魔法という物を深く追い求めているのだろうか? ざざっと中身を再度確認すると、今度はその下に置いてあったミリに頼んで手に入れたアルタナ神学の本を無造作に手に取った。挟んである切れ端に書かれた手紙に、思わず口の端に笑みが浮かぶ。 『かなり苦労して借りたんだから、絶対にあの子を助けてあげなきゃダメだからね! それから、ナジュリスにもいっぱい手伝ってもらったんだから、後でお礼を言っておくように』 ミリらしい自由奔放な筆跡は、本人の性格をよく表している。 さて、今自分の手元にある材料でどこまでやることができるか、いつかは宰相と直接対決しなければならないだろうが、それはできる限り引きのばなさなければ。守らなければいけない存在、自分を守ってくれようとする暖かな腕。 それらすべてを守ると決めた。 押し迫る時間の中でどれだけやれるかはわからない。だが見知っている誰かを傷つけるより、自分を追い詰めて傷つけた方がよっぽど楽だ。己に刺さる痛みなら理由がわかる、ならば緩和することもできる。 苦悩と絶望の海で溺れる前に、自らの息の根を止めることも。 せめて、あの堅物で優しすぎるエルヴァーンだけは巻き込まないようにしなければ。あの暖かな腕にすがるのは楽だが、彼まで苦しめるわけにはいかない。 さてこれからどうすべきか。 彼を殴ってしまった拳がうずくのに任せつつ、風の音かと思われる小さく窓が揺れる音にそちらを向けば、窓を揺らすのは風でも何でもなく。 もそもそと木に登っていると言うよりは、張り付いているといった風情の金茶の髪のタルタルと、図らずしも目があってしまった。 「…………」 「…………」 数瞬、時が止まる。 夜中に何をしているんだ、その前になぜ木登り? 突っ込むことはいくらでもあったのだが、普段は元気いっぱいの目が赤く腫れ上がっていたのを見ると、そんなくだらないことを言う気は失せてしまった。互いに苦しむことがあり、涙を流したくなることがある、今はそれで十分だ。 せめて、この瞬間だけは口にできない痛みを共有できれば。 形だけでも一応怒ってやるかと思いながら、ガダラルは気まずそうに目をそらした窓の外の子供の方に向かって、足を向けることにした。 |