「in Wonderland...?  その5」










 拳を潰そうとしたが、カーバンクルに止められた。
 かわりに石になった傭兵が落としたらしいナイフで手のひらを切り裂く。あふれ出る血が手のひらを染め、手首にまで伝っていくのを確認し、慌てて作業を再開した。
 結界の状態は再確認した。
 こちらの望む物を的確に運んでくるカーバンクルのおかげで恐ろしくスムーズに進んでいるので、思わず口の端に笑みが浮かぶ。これから死ににいくというのに笑うと言うのもおかしな話だが、一度決断してしまえばそこにあるのは純粋な好奇心と彼に向けた素直な恋情だけで。
 血を利き手の指につけ、複雑な文様を描く。
 どこに何のシンボルを配置すべきか、どこをつなげ、どこを遮断すべきか。理論的にはわかっていても実戦で使うとなると、どんなところから綻びが出てくるのか予測すらつかない。精製した特殊な染料があれば一番いいのだが、さすがにこの状況で手に入れるのは不可能。なので己の血を代わりに使い、自分の体の一部であったそれにわずかずつ魔力を込めて床に書き込んでいく。
 すぐに赤茶色に乾きほのかな燐光を放ち始めたのを確認し、次の場所へ移動し同じ行為を繰り返した。時間にして半時もかからずにできあがったそれを目の前にして、最後の確認を細かく行うと、最後に頼んだ物を口にくわえて運んできたカーバンクルが急いでこちらに向かってくる。
「来たか」
 こくこくと頷くカーバンクルからそれを受け取ると、自ら作った傷口にそれを無理矢理ねじ込んだ。悲痛な声を上げるカーバンクルを無視し、十分に血が染みこんだことを確認し、再度カーバンクルの口にそれをくわえさせた。
 腕全体がうずき、痛みと熱が広がっていくがそれには構わないことにする。どうせこれからやることに腕はいらない、立っている必要すらないのだから。
「これが最後だ……心配するな、おまえの主人は必ず助けてやる」
 必ず、なんて最初出会った時は言わなかった。
 だがこの小さな獣がどれだけ主人を愛し、そのために身を尽くそうとしているかがわかってしまった今気休めを口にするわけにはいかない。必ず助ける、それが今までつきあってくれたカーバンクルに対する最高の返答。
 口にくわえた物を離さず、今までガダラルに付き添ってきた獣は、じっとガダラルを見つめたまま。

 そして小さな頭を下げた。

 ガダラルの返答を待たずに走り去っていく姿を見送りながら、ガダラルの方も最後の準備を開始する。カーバンクルに報いるためにも、そして事を起こすまでに準備を終えておくためにも、やれることをやらなければならない。
 大きく息を吐き、新しい空気を体の隅々にまで取り込む。
 痛みを訴える手の平に、これから使い潰すことになる喉に、そして腹の奥の奥底まで。目を閉じれば、たとえ感じられなくてもアルザビを舞う精霊たちの動きが伝わってくる気がする。
 戦い慣れた競売所のいつもの位置、そこでガダラルは戦いの嚆矢となる最初の声を放った。








 声が聞こえた。
 鮮やかな印象の少女のような、年を経て枯れた男のような、幼い子供のような。それらの全てが絡み合い、競い合い、この空間全てに広がっていく。
 この歌はどこから聞こえてくる?
 石と死と血にあふれた空間で、こんな綺麗な歌声が何故聞こえてくるのだろう。
 時に高く、低く優しく。
 誰かを慰撫する女のように、戦意を鼓舞する男のように。
 全身を包んでは通りすぎていく声はどこからくるのか。階段という階段や、通路という通路が軒並み壊され、どこをどう進めばたどり着けるのかわからない。比較的破壊されていない道を選び進んでいるのだが、

 はたして自分は何を目指しているのだろうか?

 何かを考えていたはずだったのに、この周囲の霧に飲まれるかのように、自分自身が薄れていく。水のそこから無理矢理浮き上がるが如く、時折己の言葉で話し考えることはできるが、それも今は難しくなってきていた。何かを探して、何かを求めて歩いているらしいのだが、探している物は一体どこに、そしてそれは。
 自分にとってどういうものなのか。
 また澄んだ歌声が耳に届く。
 こんな遠くではなく、もっと近くで聞きたい。この歌声を聞いていれば、この胸の中で消えようとしている何かを取り戻せる、きっと。









 喉だけではなく全身が悲鳴を上げる。
 一つの音を体から絞り出すように出すと、全身が締め付けられるような痛みが襲う。震えそうになる声を拳を握ることで押さえ込むと、さらなる声を紡ぎ出すために、再度杯に空気を入れた。
 声がとぎれた瞬間に、この術式が生み出した力は全て自分に返ってくる。
 本来なら数人で行わなければならない、もうとっくに廃れてしまった原初の魔法。今のように形が決まっておらず、旋律と形と、そして使う人間の意志が世界を変えるための方法である。上手く使えばすさまじい力を発揮するが、それだけに制約も大きく、使って生き延びることができた人間もほとんど存在しない。
 ウインダスの代々の星の巫女たちは、これ以上の術式を平気で使いこなすらしいが、それも用途が限られている。ガダラルのように即興で術式を組み立て、即興で旋律を使って稼働させる馬鹿はこの世の中にそうはいないだろう。
 よほどの自殺志願者か、それともそれだけの願いがあるのか。
 ミリがいれば失敗する可能性も減っただろうにと思ってから、自分が死なないという案件はもう考える気も失せたのだなとまた笑いがこみ上げてくる。実際に笑ってしまえば、その瞬間に体がはじけて死んでしまう気もするので心の中だけにとどめておくが、この状態で笑おうとする自分の余裕に少し驚かされた。
 全身を覆う無形の圧力がまた強まる。
 息を継ぐことすら難しくなった状況で、体の全てを声を出すことだけに集中させる。痛みは集中力を乱れさせ、体を破壊し、気力を砕いていく。
「…………ッ!」
 手の平の傷が爆ぜた。
 吹き上げる血を手首を強く押さえることで押さえ込むが、とうに塞がっているはずの過去の傷までがじくじくとうずきだしはじめていた。体の弱い部分から壊れていくのだろう、このまま続けていけば。次はどこが壊れるのか、それ以前にこのまま自分はどこまで耐えられるのか。
 だが耐えねばならない、その言葉を胸に刻み、次の音を出すために体を更に強くこわばらせた。








 声を探す、ただその方向へ向かって歩き続ける。
 彷徨うようにふらふらと歩き続くが、声は中々近づいてこなかった。それでも先程より、声は耳に強く響くようになっていている。そんな中で声を打ち消すような、聞こえているのに聞こえない声。

 イッテハイケナイ。

 カエリナサイ。

 耳障りはいいが高く冷たい声。自分を導いている歌声に感じる限りない熱、そして限りない暖かさ。炎は触れると熱いが、距離さえ間違えなければ己を温めてくれる。冷たい声に全てを凍らされることより、暖かさに少しでも寄り添いたい。自分を縛り付けようとする声を振り切り歩みを進めていくと、唐突に視界が開けた。
 そこだけ霧の浸食を受けていない空間。
 ほのかに燐光を放つ床、広がりつつある血の湖の中心で膝をつきながら声を振り絞る、優しく暖かい。


 大切な人。



「ガダ……ラル……」
「遅すぎだ、この大馬鹿野郎…………」
 途切れた声と上げた顔。
 血で濁った虹彩から朱い雫をこぼしながら、彼は凄絶な笑顔で自分を迎え入れた。









 まずは今開いている傷口。

 次に古い傷。

 その次は体の内側から順に崩れていった。

 せめて目だけは最後まで持ちこたえて欲しかったのだが、それも最後にルガジーンの姿を一目見た瞬間、全ての機能を停止した。呼吸はかなり苦しいが、喋ることが十分可能なのは、もはや奇跡といえただろう。
 自分の謡いは十分な成果を上げつつあるようだ、後は……
 最後の仕掛けが発動するのを待ちつつ、自分の血で塗れた床に手をついて息を整える。膝と手の関節が片方ずつ砕けたので、片膝立ちの姿勢を維持するので手一杯。近づいてくる足音、そして金属のこすれあう音。逃げる気力も立ち向かう意志も、もう存在しない空っぽになりつつある自分の中にたった一つ残っている物。
 彼への思いだけを胸に抱いて逝くのもいいだろう。
「殺しに来たか……だが俺を殺してもこれはもう止まらん。貴様は散々悔やんで、自分を責めて、そして一生這い蹲って生き続けろ……」
 せめて一度触れるくらいは構わないかと思い、目の前で止まった気配に向けて手を伸ばすと、手に触れたのは想像もしていなかった柔らかな感触だった。細かい繊維を寄り合わせ、それを貴石か何かで止めた物だろうか。研磨しただけで加工していない不揃いな石と柔らかい糸……いや。
 これは髪だ。
 更に手を伸ばせば、金属越しに伝わってくるわずかなぬくもり。触れられても微動だにしないそれは彼の手で。彼の手が握っているアルゴルにつけられているのは、きっと。
 きっと。
「…………この…………馬鹿…………が……………………」
 これは涙ではない、目が更に限界に来て流す血の量を増やしただけだ。
 一房だけ、と言って自分の髪を貰っていった男は、ラミアに捕まろうが何をされようがそれを手放さなかった。それと反して自分は、彼がいなくなっても自分を守ることに心を砕いて、あえて彼を忘れようとしていた。

 彼はそうして生きた。
 自分はそうしなければ生きていけなかった。

 最後の最後にこんな事など知りたくなかった。
 離れすぎていると思っていた距離、だが互いの心の奥底にある物が互いへの思いだったことにかわりはなく。綺麗に見える思いでも、その内側には醜いものが秘められ。自分勝手な感情の中には、認めたくないほど純粋な気持ちが隠れている。

 人の思いは一つの面だけを持っているわけではないのだ。

 もう少し早く気がつくべきだったか、自嘲気味に口を歪ませると、今でも半ば繋がっていた床の陣から、全ての準備が整った合図が送られてくる。すさまじい勢いで最初に定めた動きを繰り返し始める精霊たち、そしてかなり離れた場所から聞こえてきたカーバンクルの鳴き声。
 どうやらクリスタルの設置が終わったらしい。
 切り取られたこの空間自体が大きく揺らぐ。叫ぶように空気が震え、さざめく波のようにそれが広がっていった。
 無言で剣を構えたルガジーンの手が離れようとしていくのを、ほとんど力が入らぬ指で握る。別にこのまま自分を斬っても構わないが、最後に少しでも触れておきたい。
 あの時わずかしか触れあわなかった指、それを鮮明に覚えている。
 どちらから離れたか、あの時はわからなかった。だから今度は自分だけでも離さないようにしよう、そんな小さな思いつきに我ながら馬鹿かと心の奥底で己を罵る。
 その瞬間、すさまじい勢いで自分の内側の最後の崩壊が始まった。
 まだ無事だった関節、喉、何とか命をつないでくれていた全ての器官が壊れ、音もなく死への道へ急速に進まされていく。情けない、こんな事に無駄に命を使って、そんな言葉も浮かぶか。

 これさえ救えればまあいいか。

 ほんの少しの満足と、たくさんの後悔を胸に抱きながら、ガダラルは己の意志を閉じた。











何も語らず、といったところでしょうかねえ。
すっごく後悔が残っているので、たぶんそのうち大幅に書き直すのです。

BGM「奈落の花」 by 島みやえい子