「たった一つ」









戦の後に残るものは、どんな場所であろうと変わることがない。
 口数少ないまま動かない負傷者と、それを助けようと奔走する治癒魔法の持ち主たち。そして辺りを支配する濃い腐り果てた血の臭いと、どこかがまだ燃えていることを教えてくれる必要以上に熱を含んだ風。
 そこには破滅と絶望しかありえないはずなのに、生きている人間の顔は皆明るかった。失った存在を忘れているわけではなく、生き延びることができた自分と守りきることができた仲間。小さな喜びを分かち合うことが、悲しみを覆い隠すためには必要だった。戦い中の最中にはぐれた仲間に出会えた喜び、蘇生呪文が間に合って大切な人を失わずにすんだ歓喜の涙。傭兵に信用をおく気はないが、どん底の状況から幸せの元を見つける彼ら特有の精神のあり方には時折感服すらさせられる。
 そんなあらゆる種類のざわめきが周囲を飛び交う昼間、ガダラルは監視塔の真下で体を休めていた。
 ラミアの尾の一撃で崩れた壁であった物の上に腰掛け、底の抜けかけた桶で水口を洗っていると、周囲の傭兵たちから傷を治しましょうか、という声がとんできた。ラミアの爪で引き裂かれた肩から流れ続ける、鮮やかな血。わざと傷口を開いて、後々膿まぬように洗っている姿がよほど痛々しく見えたのだろう。
「俺に構うな、傭兵にそこまでされるほど堕ちてはいない」
 と答えれば、自分とのつきあい方をわかってきたらしい傭兵たちは最初のうちは素直に引いたのだが、出血量の多さに不安になってきたのだろう。問答無用で呪文の詠唱を始めようとする者も出始め、あわてて場所を変えることにした。
 もう少しあの場に留まって、傭兵と己の部下の消耗具合を見ておきたかったのだが、自分に向けられる好意と同情の視線は、なんというか別な意味で耐え難い。右手のみで水桶を持ち、左腕をかばいながら歩いていると、事後処理で走り回っていた副官が、こちらに気がついてあわてて走り寄ってきた。
「ガダラル様、こちらにいらっしゃったんですか! ガダラル様まで、ナジュリス様のように行方がしれなくなっているのではと心配いたしました」
「その顔で泣くな、うっとおしい。で、ナジュリスはまだ見つかっていないのか?」
「ラミアの撤退後、お姿を見た者が誰もおりません。あちこちを探させているのですが……」
「奴らの捕虜になってるに決まってるだろうがっ! 町中を探してどうする、さっさと救出部隊を」
 組織しろと言いかけた時、体が大きく前へ傾ぐ。
 床と衝突しそうになる寸前に膝を立て、歯を食いしばって意識がとぎれるのだけは何とか堪えるが、体の奥底に残るダメージは相当なものだったらしい。肉体的なダメージは肩に残る傷だけだが、高位の精霊魔法の連発は精神と肉体をぎりぎりまで酷使する。
 今後の戦いに影響を残さぬためにも、もうこのまま眠りに落ちてしまうのが一番いいとわかっているのだが。

 まだだ。

 まだ、自分の戦いは終わっていない。

 うずき続ける肩の傷と、それにあわせて脈動する心臓の音がそう訴えてくる。
 横でおろおろしながら自分を運ばせようとする副官を殴って周囲から追い払うと、頭を締め付けていたターバンを取り去った。わずかに赤く染まった桶の中身をそのまま頭にぶちまけると、呪文の使いすぎてぼーっとしていた頭にわずかだが活気が戻る。
 寄りかかっている壁と背中の間に、ぬるい水が染みこんでいく。
 体温より低いそれにわずかな安堵を覚えつつ、頭も壁に預け大きく息を吐いた。傭兵が参加するようになって、かなり余裕を持って戦いに臨むことができるようになったが、それでも負けそうになることはあり、実際に魔笛が奪われたこともある。
 皇国のため、聖皇のため。
 言うは易しいが、その思いだけで動いている傭兵はどれだけいるだろうか。いや、最前線に常に立ち続ける五蛇将ですら、忠誠や愛国心を心の外に置きながら、それぞれ望む物を持っている。
 ガダラルも、そして遠くに見える自分を探して走り回っているであろう長身の男も。
 ほどけかけているターバンから伸びた髪がこぼれ、唇の端には血がまだこびりついている、いるだけで周囲の目を引きつけるエルヴァーン。歩いている傭兵を捕まえてはさりげなく、だが熱のこもった声で自分の行方を聞いているのだろう。
 天蛇将の名で命令を出せば一発なのは本人もわかっているだろうに、決してあの男はそうしようとしなかった。どこか子供じみた感傷なのか、それともそうすることが正しいと思っているのか。だが、皇国の期待を一身に背負った男が己の傷を癒すことを後回しにして自分を探しているという事実は、ガダラルの心をわずかに和ませる。
 どこまであの男の愛情という名の綱を引き寄せればいいか、どこで手放せばいいか。
 戦いで疲れ切った頭を酷使しながら、ガダラルの心はもう一つの戦いを始めていた。一人の男の心を、そして愛情をどこまで自分に向けさせておくことができるか。自分が余計な感情に溺れずに、どこまで五蛇将としての責務を全うし続けることができるか。
「……女にとって恋は戦というらしいがな…………」
 思わずこう呟くと、普段より悲壮感を強めた聞き覚えのある声が上から振ってきた。
「ひどい怪我だな」
「ナジュリスは?」
「奪還部隊が明日には出発する」
「そうか」
 短い事務的なやりとりの中、彼の目はただ自分の傷口だけに注がれている。もしこの場で彼に出会えなくても困らぬよう水で洗った傷口からは、まだわずかに血が流れ続けている。さすがに流れた量が多かったからか、それとも疲れ切っているからか。重い頭とふらつく体に最後の鞭を入れ、敵に投げかける矢のように言葉を発した。

「さっさと治せ、貴様が来るまで待ってやったんだ」

 約束などする気はない。
 戦場でいつ倒れるかわからない相手に愛を囁く気にはならないし、愛を囁かれるのもごめんだが。
 血と腐った臭いの満ちる中、負った傷を最初に癒すのはこの男。
 誰に伝えるわけでもなく始めた小さな決まり事、だが今まで一度も破られたことがなかった。
「遅れてすまなかった」
「傭兵どもを使い潰すわけにはいかないからな、それに貴様を使った方が気分がいい」
「そういうことにしておこうか……ああ、傷はともかくゆっくり休む必要がありそうだ。君の私邸まで送らせよう、事後のことは私に任せてくれればいい」
 熱を持った肩に触れる手は、適度にひんやりとしており、まだ何もしていないというのに痛みを吸い取ってくれるかのようだった。姫君の手を取るかのように自分の肩に恭しく触れてくる相手に敵意すら感じられる微笑みを送ってから、ガダラルは目を閉じて相手にされるがままに任せることにした。


 女にとって恋は戦なら、男にとって恋は殺し合い。

 どれだけ相手の心を食い尽くすか、相手に食われぬようにやり過ごすか。


 それができなければ、人に思いを向ける意味などないのだから。















 ガダラルさんある意味ハイパー化(苦笑)
いい意味でも悪い意味でも自虐的で献身的で、そして破滅的な人なんだろうなあと思うわけです。自分の人間としてのだめさをわかっているからこそ、ああいう態度をとるんだろうなあと……

 才能のある破滅型人間ほど厄介な物はないです、ええ。
 自分が破滅するのわかってても、突っ走るタイプは敵にも味方にもしたくないなあ、個人的には。



BGM「CARNIVAL・BABEL」 byTAKADABAND