「escort to heart」











 長いだけ長くて、派手と贅沢の極みを詰め込んだ廊下をただひたすら歩む。
 久々の聖皇との謁見も終了し、この怠惰と腐敗が詰め込まれた広大な宮殿を出ることができると思うとせいせいするが。あの華奢な体に強い変革への意思を秘めた聖皇は、ここで一人民の状況を知りながら悲しむことしかできない。時折外に出ることが許されても、それが国を返る力にならないことを彼女が一番知っている。
 深々と頭を下げてくる女官たちに軽く手を挙げて答えながら、ため息をつきたくなる衝動を無理矢理押し殺す。
 さっさとここを出て、アルザビの混沌としているが、力に満ちあふれた空気を思いっきり吸い込みたい。甘ったるくてくどい香りしか感じられないこの場所は、ルガジーンにとって苦痛を与える場でしかなかった。
 欠伸一つするわけにいかないここで、どうやって人々は息抜きをしているのだろう。そんなことを考えたこともあるが、他の人に見えないところで本当の己をさらけ出しているのだろう、きっと。
 ここにいるのは儀礼という名の仮面を被っている存在。
 生の感情を押し込め、優雅な仕草で飾った己で利権を巡って争うことの何が楽しいのだろう? 前に一度ガダラルにそう聞いたことがあったが、彼から返ってきたのは『必要的儀礼』という一言だった。ルガジーン自身は宮中儀礼なんていうものからはできる限り逃げ出したいし、実際得意とは言えない。
 聖皇だろうが何だろうが悪いと思えば目の前にいても批判するガダラルだが、礼儀作法はなぜだか必要以上に理解していた。わかっているのに使わないのは宝の持ち腐れなのかもしれないが、ふとしたときに見せる優美な所作は、宮中の作法を見慣れているルガジーンですら見惚れてしまう程のもので。
 あれで使う必要がある場所で使えばいいのにと考えていると、いつの間にかその本人が横を歩いていた。
「ぼんやりしながら歩くな、見栄えが悪い」
「……何故ここに?」
「厄介事だ」
 顔を背けながらそう言い放つ。
 何か面倒事を頼まれたな、と瞬時に察知したが。ぷいと顔を背けながらせわしげに鎧の留め金を直している彼に聞くのも、なんとなく悪い気がする。
 しばらく、会話もなく歩いていたが。
「貴様、踊りは踊れなかったな? 女のエスコートなんて、当然できないな?」
 ふと、ガダラルがそんなことを聞いてきた。
「一生避けて通りたいほどの苦手分野だが、それがなにか?」
「そうか……面倒なことになったな」
「面倒?」
「宰相から貴様に踊りを仕込めと命令されてな、次の晩餐会までにまともに踊れるようにしておけと」
 贅の限りを尽くした全面がガラスの回廊の中、無限に日が降り注ぐ下で。

 二人の足が同時に止まった。

 日の光を浴びるとガダラルの髪は夕日を思わせる色合いに変化して綺麗だ。そんな考えで頭をいっぱいにして逃避しようと試みてみたが、言われた言葉の重さがそれを許してはくれなかった。
「無理だと断ることはできなかったのか!?」
「断れたら貴様に言うわけないだろうが!」
「私にそんなことができるわけないだろう……剣と女性は扱い方が違う。女性は振り回したら折れるだろう」
「こんな時に突っ込みたくないがな、貴様の脳みそはどうなってるんだ……」
「皇都防衛と君のことしか考えたくないのだが、今は。ああ、勿論最優先は君だよ」
 精一杯の笑顔を見せたつもりだったが、ガダラルから返ってきたのは盛大なため息だった。
 苦手な物から逃げたいというのは人として当然の感情。
 自分の職務と直接は関係ないのだから、別にそんなことに時間を傾注する必要は無い。しかめっつらのままの彼に訴えてみたが、ただ首を振るだけだった。
 いつか二人でここを歩いたら楽しいだろうと思っていた場所を二人で歩いているというのに、全く楽しくない。色ガラスが石畳に落とす七色の色彩、吹き込む風が万色の光をあちこちに広めている優しい空間。
 なのにそこでする会話が、踊る踊らないの問答というのは。
「つきあってやるからさっさと終わらせろ」
「君は私の不器用さを知らないから簡単にそんなことを言えるんだ」
「知ってるからさっさと始めろと言っている」
「…………本当に、勘弁してくれないか?」
「俺も給料を減らされたくないからな。せいぜい俺の金のために頑張ることだな」
「金で君は裏切るのか……」
 それだけでもないがな。
 つまらなそうに呟いたガダラルだったが、付き合ってくれる気はあるらしい。たとえ給料のためさとしても、自分の苦手分野克服のために付き合ってくれるのは有り難いと思うべきか。
「とりあえず定規とコルセットでも用意するか」
「君は何の特訓を始める気なんだ……?」
 これはもう逃げようがない。
 彼と過ごす時間が増えたのだから有り難いのだと自分の暗示をかけて、なんとか乗り切るしかないだろう。ぶつぶつと呟き指を折りながら、地獄になるはずのスケジュールを組み立てるガダラルを横目で見ながら、彼相手に甘い時間は無理なのかとちょっと落ち込む昼下がりだった。






 それからのことは、思い出したくもない。







 盛大に肩と胸元を露出したどこの貴族の娘かもわからぬ令嬢と踊り終え、にこやかに手を降って別れると、その足で庭へと向かってさっさと歩き出すことにした。何人かの女性に声をかけられるが、喧噪に紛れて聞こえていないふりをして、さっさと前を通り過ぎる。聞こえていなければ、相手に対する無礼には当たらない。こんな無駄な知恵なんて覚えたくなかったのだが、使ってみると存外に便利だった。
 ミリやナジュリスに頭を下げて練習に付き合ってもらい、ガダラルに背筋が伸びていないだの、その長い首はまっすぐ伸ばしておけだの、足元がおろそかになっているだの散々罵られながら過ごした日々は、ちゃんとルガジーンに成長をもたらしてくれていた。女性陣の足をどれだけ踏んだかは思い出したくもないし、ガダラルに定規で叩かれて痣になった背中は、未だにじんじんと痛みを伝えてくる。もう二度とやる気はなく、同じ事をまたやれと言われたらルガジーンは自分の命を賭けても拒否するだろうが。
 だがわかったことも少しある。
 ただ礼儀正しく接していれば人が友好的に接してくれるわけではない。同じ礼儀作法の土壌に立ってこそ、人は目の前にいる人を信じられるのだ。目の前の人間に異国の礼儀作法で挨拶されても、相手は警戒するだけ。宮中には宮中の礼儀があり、それを道具にして人はコミュニケーションを始めることができる。
 ガダラルが『必要的儀礼』と言った理由は、これなのだろう。
 国費の無駄遣いだと思っていた晩餐会の中で、貴族達は領地について様々な情報を交換しあう。時には互いの領地の支援の話や、税の負担の軽減にまで及ぶ話。先程まで自分の胸にしなだれかかっていた娘からも、東の属国の貴重な話を聞くことができた。
 多分、娘と踊らなければ知ることができなかった話。
 一歩踏み出さなければ得ることができない情報が、世界にはあふれている。
 それを知ることができただけで、この辛く苦しい日々は確実に自分の糧になったのだろう。
 かなりの人数の女性と踊って色々な意味で疲れたが、それも情報を得るための対価ということで甘んじて受け入れることにする。これなら蛮族と戦っていた方が気楽だ、という言葉は胸の奥に押し込め、なんとなく自分の顔を彩り始めた笑顔を前向きに受け止め。
 こんな経験も面白かったと、考えてみることにした。
 儀礼用の鎧で踊ったからか、じんわりと熱を持った体に夜気が心地よい。
「ご苦労様だったな、天蛇将殿」
 そんな自分をつけてきていたのだろうか、はじけるような笑い声が背後から響いた。
「ガダラル……見ていたのか」
「爺どものお守りで無理矢理呼ばれたんだが、いい土産話ができそうだな」
「足は踏んでいない」
「当たり前だ。俺に本気で仕込まれて、そんなへまをするわけがない」
 炎蛇将としてでなく、個人として呼ばれたのだろう。優しい色合いの正装は、地味に見えるが金糸銀糸で各所に刺繍を施した高価そうな物であった。上空から注ぐ柔らかい光が浮かび上がらせる笑顔は、いつもより穏やかに見える。
 いつもは五蛇将としての正装か、鎧姿でしかこういう場所で会うことはない。それ故かなり新鮮に感じられる。動きやすさを優先しているのか、細身のシルエットのトラウザーズが足のラインをしっかり見せてくれているのも、珍しいといえば珍しかった。
「何をじろじろと見てる」
「君のそういう姿は珍しいと思ってね」
 そう素直に答えると、ガダラルの笑顔が更に柔らかくなり。
「まあ貴様なりに頑張ったからな、褒美をくれてやる」
「褒美?」

 どんな淑女よりも強く優雅な腕が、自分に向けて差し伸べられる。

「ガダラル……」
「なんだ、他の女とは踊れても俺とは踊れないのか?」
 心底不思議そうなその声に、ようやく自分に求められているものに気がつく。
 地獄の特訓の中で最初にガダラルに教えられたこと。相手が差しだしてきた手は、大切な宝物を受け取るときのように包み込むこと。男の腕は相手を守り、満足させるためだけに存在する。

 その一時だけは。

 それをルガジーンは忠実に実行した。
 恭しくその手を取った上で腕に抱き込み、逆の腕で肩を抱くと首を必要以上に下に向けることなく耳に向かって囁く。
「私と踊っていただけますか?」
「声が近い、首は曲げるなと何度も言ったはずだが」
「君は本当に厳しい教師だな」
 二人の笑い声が綺麗なハーモニーを形作ったとき、遠くから聞こえる楽の音が新しい曲が始まったことを教えてくれた。
 するりと腕から抜け出すと、優雅に一礼してルガジーンの手が自分をリードしだすのを待つガダラルの姿を美しいと感じながら、ルガジーンは腰に手を当て再度彼の体を腕に収めた。

 派手すぎず、静かに響く音色に動かされる二人の体。

「足は踏むなよ」
「本当に私は信用がないんだな」
「ミリの足が腫れてたぞ、鉄の靴でも用意しておくべきだった」
「何か……土産を買って帰らないといけないな」
「足がずれた、俺を転ばせる気か」
 散々文句をつけるくせに、自分の体を全て預け完全にリードさせたままでいるガダラルもガダラルだが。遙かに精密にステップを踏むガダラルを、自分のリズムで振り回していることを喜んでいる自分も相当な馬鹿なのだろう。
 会話に夢中になって途切れがちの音楽に合わせられず、時には適当に彼を振り回して。
 抱いた腰から伝わるぬくもりすらも愛おしいと感じる。
 儀礼だのなんだの、面倒なものはやっぱり好きになれないが。それによって理解できたことがあり、たまに愛しい人から『ご褒美』をもらえるのなら。
 嫌なこともとりあえずやってみるべきということか。
 自分に身を任せている愛しい人の顔を見れば、月の光が与える陰影が穏やかな顔を更に彩っていて。きゅっと結ばれた唇をどさくさに紛れて塞いでしまおうかとも一瞬考えもしたが。
 せめてこの曲が終わるまではこのままで。
 音もなく華麗に滑る体を支えながら、今自分のいる場所が先日の回廊の側だと気がつく。彼と日の光を浴びてゆっくり歩きたいと思った場所で、月の光を浴びて音楽に合わせて踊りながらすごすというのも奇妙な物だと思いながら。

 彼に気がついてもらえるように、少しだけ体の角度を変えてみた。












 ワルツは本気で苦手です……必ず相手の足を踏む(苦笑)
 細かいところを書き直しましたが、あんましかわんない気が。

 礼儀作法と必要的儀礼っていうのは違うわけで。わかっているけどやらないのがガダラルさんで、礼儀作法はしっかりしているけど権力とかそういうのは嫌いなので覚えたくないのがルガさん。


 BGM「月のワルツ」 by諫山 実生